阿賀野市の合併に伴い、旧水原町の歴史を作って見ました。
文章、写真の位置に間違いがありましたらお許しください。
歴史

平安時代 白河荘と呼ばれる荘園で、藤原摂関家が支配した。
平安末期 城氏が越後守として支配。
鎌倉初期 源頼朝が城一族を滅ぼす。関東御家人大見氏(後の水原氏、安田氏、山浦氏)が地頭職として補任。
江戸時代 幕府、新発田藩、村上藩に三分。
1764年(延享3年)水原代官所がおかれた。
1868年(明治元年)9月 天朝山に越後府がおかれた。 天朝山は戊辰戦争北越戦争)で消失した市島邸跡地。
1869年(明治2年)2月 越後府と改称。
1869年(明治2年)7月 水原県と改め、新潟県を合併。
1870年(明治3年)3月  新潟県と改め、県庁所在地が新潟市へ移った。
1889年(明治22年)   町制施行。
1891年(明治34年)   安野村と合併。
1955年(昭和30年)   堀越村、分田村と合併。
2004年(平成16年)4月1日 水原町、安田町、笹神村、京ヶ瀬村が合併して、阿賀野市になった。


矢倉復元 (平成 11年)

天朝山は水原の富豪の市島家が飢饉を救うために造ったものでそこには別邸が建っていました。戊辰戦争の時官軍によって燃やされ市島家が明治政府に献上したが、明治新政府は鎖国政策を改め、長崎、神戸、横浜、新潟、函館、の五港を開港「安政の開国」し、海外貿易を進めるため水原では不便なので県庁を新潟に移し、新潟県と名称を改めました。


越後府 水原県 (明治 2年)

明治 3年3月に県庁が新潟に移され新潟県と名称が改めるまで、
わずかな期間でしたが、府庁、県庁のあったこの水原はまぎれもなく
「県政発祥の地」と呼んでいいでしょう
越後府 水原県 (明治 2年)

越後府の命令により中島に住む大工、五十嵐徳次郎を棟梁として
建築が始まりました
水原駅 (大正元年)

日本海縦貫鉄道の一環として新津ー新発田間が開通、
水原停車場が営業を開始した。
水原駅 (大正10年)
 水原駅 (昭和初期)

人力車がお客を待っている。駅前の風景は時をこえども今も昔も変わらない
水原駅 (昭和 14年頃)

昭和47年羽越電化が完成するまで蒸気機関車が走っていた。
水原駅 (昭和 33年)

富山国体の走り幅跳びに出場した水原高校生の佐藤ひろこさん(優勝)と
真壁さんを出迎えをした佐藤町長が健闘を称えているようすです。
38豪雪の水原駅 (昭和38年)

この年は正月元旦から列車が立往生して、消防車がホースで機関車に
給水するなど、救援活動に奔走した。
水原駅前通り (昭和 30年代)

組合倉庫を新潟交通水原営業所に貸しその屋上からの撮影
南部郷消防団連合演習 (昭 和40年)

市中行進で第四銀行前で塚田県知事の観周を受けているところです。
現在の本田市長はこの頃、塚田知事の秘書をしており選挙対策本部長で
知事を二回当選させたこの頃に培われた人脈が中央に太いパイプを築き上げた
水原商工まつり (昭和25頃)

水原町商工会主催の商工祭りで景気回復、商工振興をアピールした。
歩け歩け運動 (昭和 40年)

下町町内会の約20人が6時に集合、 30分のコースを歩きました。
右側の建物は旧丸岡医院、ペンギンはゴミ箱だったような気がします
本町通り  (昭和 27年)

手前の屋根が神明宮で鳥居の向こうが本町通りです。
神明宮  (大正初期)

水原の鎮守様。左前方は水原小学校

都市計画事業により道路が瓢湖まで開通、渋滞が緩和された。

神明宮は右側に移設されました。

水道タンクから眺めた市街地 (昭和 30年代)

遠方の羽越線に蒸気機関車が走っているのが見えます。
白い建物は警察署で国道49号線の接地により現在の岡山町に引越した。
警察署の右となりは第四銀行
水道局から第四銀行方向
水原町の市街地 (昭和30年)

まだ国道49号線が出来ていなかった頃の航空写真です。
右側に昔の小学校、真中は天長山です。
国道49号線工事 (昭和40年)

天朝山が見えます。
中島三叉路 (昭和30年代)

国道49号線が出来る以前の道は砂ぼこりが舞い三叉路の為、
中央部分のデコボコがひどかったバスが通る度ひっくり返りそうになり、
何かにしがみついていないと怖い場所だった
昭和47年歩道橋から

町の発展を象徴するようにまっすぐ伸びる道路
警察署が道路にかかり一番早く建設した
国道49号線工事 (昭和43年)

まだ舗装工事も信号機もついていなくて雪道はたいへんだった
水原バイパスが完成するのは昭和45年です。水原町で2番目の
信号機がここに付きました
国道49号線弧線橋工事 (昭和40年)

水原バイパス弧線橋は一番時間がかかり中々開通しなかった
国道49号線バイパス開通 (昭和45年)

バイパス開通により踏切を通過することなく中央町の渋滞が緩和され
元町三叉路、新津新発田線工事開始 (昭和41年)

新津新発田線は県道の為家屋の移転やら中々工事が進まなかった
長さ300m幅11mの道路が昭和43年に完成しました
雪の水原町全景 (昭和 50年)

この頃はまだ瓢湖の周辺は整備されていません。
白鳥通り (昭和30年代)

出来たばかりの白鳥通り瓢湖から天朝山方向には建物はなにもなく
正面に天朝山がよく見える右手は大雲寺墓地の竹林
町議会の風景 (昭和 33年)

この頃の町長は佐藤貞太郎さんで議会議長が阿部文三さんの時代です。
旧水原町役場

太平洋戦争真っ只中の昭和19年に材料不足での建築だったので
雨漏り、傾斜、老朽化は深刻だった
二代目役場解体工事

体育館、役場は新校舎に生まれ変り、旧役場は取壊され現在の商工会となる
水原町からまた一つ昭和の建築物が時代と共に無くなってしまった。
長い間通い慣れた役場が取壊されると年配の方が神妙な気持ちにもなると言う
水原町商工会

元町役場だったが現在は水原町商工会に
水原小学校  (昭和 6年12月)

水原、安野両地区民が感情的に対立し、4ヵ年間の紛争を繰り返した。
校舎の完成は難産したぶん町民は祝福した。
解体直前の水原小学校 (平成 9年5月)  

県内最大級の木造学校だったが老朽化が進み新しい学校
になります。この解体の材料は一部代官所に使われています。
水原小学校  (昭和 6年12月)

平成9年までの67年間で卒業生約2万名におよぶ。
現在の水原小学校

現在でも当時の流れで水原地区は水原小学校へ下条地区は安野小学校へ近くても遠い水原小学校になっているのは明治22年の下条村が合併で安野村についてからである。

旧水原小学校  (明治 42年)

小学校令改正により義務年限延長になり、高等科併置のため校舎の増築工事落成を記念して大展覧会を開催した。
旧公民館

瓢湖までのバイパス工事により消失する以前の建物
公民館解体工事
水原小学校入学式 (昭 和31年)

この頃はみんな学生服を着ていました。神明宮に参拝してから学校に行ったそうです。
代官所 復元  

前小学校の廃材を一部利用して造られました。
本町通り  (昭和 30年2月)

スケートで遊ぶ子供達、左側にはゲタを履いて歩いている人がいます。
正面に神明宮が見えます。
中央町 一丁目  

平成 9年歩道用共同アーケード設置
瓢湖  (昭和 29年2月)

瓢湖はこの年に県、国の天然記念物に指定された。
外城町八幡宮前  (昭和 33年)
38豪雪  (昭和 38年1月)

新潟県は大豪雪に襲われ、交通機関が途絶し建物も危険となり、一斉に屋根の雪下しが指示されました。
分田中学校  (昭和 31年)

分田中学校は昭和24年に開校されましたが昭和45年に水原中学校と統合し閉校となりました。
水原中学校、体育館建設工事 (昭和37年)

昭和35年から4ヵ年かけて建設されました。
水原小学校の桜  (昭和 30年代)

桜の花見といえば瓢湖か水原小学校でした。
町民運動会 (昭和30年代)
水原郷病院開業  (昭和 29年)
第一回盆踊り大会 (昭和 31年)

戦前から盆踊りは行っていましたが、戦後の盆踊りは昭和31年からです
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盆踊り大会 (昭和 30年代)

当時は天朝山を埋め尽くすほどの人が集まりました。
敬老会 (昭和 40年)

お年寄りはいつまでも大事にしましょう。
ハバロスク市バレーボールチーム (昭和40年)

親善試合にきたバレーボールチームが瓢湖を訪問



瓢湖は小さな人造湖であるが,この湖が有名になったのは,昭和29年に,1人の老人がシベリアから渡って来る白鳥の餌付けに成功してからである。以来,ここに集まる鳥の数も年々増え,現在では,白鳥とカモで冬の湖面は満員の状態。

水原町上水道水源地  (昭和 11年)

水原町は生活用水に恵まれず、本町の川を使用していた為、伝染病の発生率が高く昭和11年上水道工事を起こし地下水をポンプアップして給水した。
水道局
水原のランドマーク水道タンク (昭和30年代)
水原役場  (昭和 18年)

明治34年水原町と安野村合併条件の一つとして、中央部である現在地に
町役場を移転した。
水原町商工会

元町役場だったが現在は水原町商工会に
水原郵便局  (昭和初期)

明治5年水原郵便役所が開設され、同33年水原中町に移し昭和32年までこの建物で郵便業務が行われていました。
水原農協
水原農学校開校。  (明治44年)

創立当時の校舎と品評会場入り口風景、現水原高校
県立水原高等学校

大きな声では言えませんが実話、私の母校なんです。
旧安野小学校  (大正初期)

明治22年の町村合併で山口村と下条村が合併して、地区内を流れる安野川にちなみ安野村となった。明治34年第二次町村合併で水原町に合併し水原町立安野尋常小学校と改称された。
現在は公民館

当時の玄関をそのまま下記の写真ように移設した
旧安野小学校前 (昭和43年)

安野小学校は国道に隣接していた為、交通量の激しさ通学児童の安全から
水原町で第一号機の信号機が取付けられた
旧安野小学校の玄関

明治43年竣工当時の正面玄関、町の寄付で当時のまま保存して
山口町内の集会所として現在に至るが知っている人は少ない貴重
な明治建築であるが玄関がサッシに取替えてあるので解りづらい
左上の写真を参考に
無為信寺  (明治後期)

武田甲斐守源美光の末裔信房か建立し、寛政12年佐藤伊左ェ門が再興した。
大正2年炎上前の写真です。
平成15年に手前の橋が改築されました。
市島本邸  (昭和初期)

天保の飢饉に水原の大地主市島徳次郎氏が難民救済事業に築いた市島邸です。明治維新に焼かれ新潟県政発祥の地であるため天朝山と名付けられ水原町の文化財に指定保存されている。
市島本邸  (昭和初期)

多くの樹木が茂っていたが昭和36年の室戸台風によって倒れた。
今は昔の面影はない。
水原町市場風景  (明治後期)

日用雑貨や衣料品は出展場所がそれぞれ決まっていたが魚類は、横町、下町と隔月交互に場所が変わった。


当時はかさなどは無くみんな木枯らし紋次郎のようだ
水原町市場風景  (明治後期)
水原町市場風景  (昭和 25年)

昭和11年に上水道が敷設され、中央の小川が埋め立て後の上町風景
右前方に第四銀行水原支店の屋根が見える。
本町通り  (大正初期)

上町より神明宮を望む。中央の川は炊事、洗濯などの生活用水に使用した。
人力車が数台みえます。
本町通り  (大正後期)

中町から上町方面を望む。
本町通り  (昭和初期)

上町神明宮の火の見やぐらの上からみた本町通り。
南新町  (昭和初期)

南新町より中島方面を望む。
水原警察分署  (明治 22年)

明治9年、新発田警察署水原分署が設置され、明治21年水原大火に全焼、
翌22年横町に新庁舎を新築移転した。
旧水原警察分署跡

現在の国道49号線上のあたりでした。
本町通り  (大正後期)

消防組員がまといと旗を先頭に行進している。
左の建物は現在の北越銀行で大正10年に新築された。
北越銀行水原支店前
本町通り  (明治後期)

下町佐藤友右ェ門家の前。
中央町二丁目 丸岡医院前
供出米出荷風景  (昭和 30年)

政府は早場米奨励金を出して早期集荷に努めた。牛馬車60`米俵などは今は見られない
元新潟交通水原営業所跡
海軍記念日祝賀パレード  (昭和 17年)

真珠湾攻撃大勝に感激した軍人が海軍記念日にトラックを軍艦に飾り、町内をパレードした。
天朝山前
瓢湖  (大正初期)

瓢湖の観覧会が町と瓢湖保勝会によって開催された。
瓢湖  (大正初期)

満開の桜見物に集まった子供達、桜より自動車が珍しい。
瓢湖  (大正初期)

暖かい日がくると小船で瓢湖を一周する観桜客が訪れる。
 水原製糸工場 (明治42年)

明治40年創立、瓢湖畔横山に工場が操業を開始した。
200名の女工が寄宿舎に住み込みで、早朝から製糸作業に精をだした。
映画で“ああ野麦峠”がヒットしたことがあるが、
この映画は岐阜県飛騨地方で同じ製糸工場に貧しさから
幼くして働く女工の物語です。
 水原製糸工場 (明治42年)

日清、日露戦争後、外貨獲得のため養蚕、製糸業を
奨励された水原郷は県下有数の養蚕地帯となった。

水原甚句に “あちゃあちぁ水原、コメ、イト、サクラ”と
歌っているイトとはこの工場を指している。
日露戦争凱旋  (明治38年)

日露戦争出征の新発田歩兵隊が新津駅に下車徒歩で新発田に帰還の途中、水原町を通過の歓迎風景。水原町役場前に特設した凱旋門をくぐった兵士達。
日露戦争凱旋  (明治38年)

上記歩兵隊が休憩に水原小学校校庭が当てられた。接待は水原町愛国婦人会が奉仕した。歓迎アーチと門外に溢れる町民の熱狂的な歓迎
 日露戦争戦死者の葬儀 (明治38年)
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